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更新:2000/06/04


満州の玄関
20世紀前半の大連港は日本と日本人にとって、大連と満州の玄関であった。
帝政ロシア時代にも五基の突堤をもつ巨大な埠頭と四基のドライドッグを有する世界屈指の造船所を計画していた。日露戦争で日本軍のダーリニー占領までに実際に建設されていたのは、二基の突堤とドライドッグ一基だけであった。
日露戦争が終わると日本政府は大連港の建設と経営を満鉄に託した(1907年)。
日本政府は清国政府と交渉して、大連港の自由港化を清国政府に認めさせてが、交渉相手は清国政府の政治家でも官僚でもなく、清国の税関の総元締めであったイギリス人であった。
アヘン戦争以来のイギリスを筆頭とする列強が、清国に押し付けた関税の自主権喪失という不平等条約のため、イギリス人が税関組織の頂点にいた。
1907年5月、大連は自由港として国際的に認知され、租借地に輸入されるものについては関税は課されないことになった。
既存の第一・第二埠頭を改修し、第三埠頭が完成したのは1920年、3万トン級の船舶が接岸できた。
大連港から輸出された主要品目は大豆、大豆油、豆粕、石炭であった。
後、石炭積み込みの専用埠頭として大連湾の対岸に甘井子埠頭がつくられ、大量の撫順炭が日本に向けて積み出された。 画像をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
大連港第二埠頭 大連港第二埠頭
船と列車の連絡のため、埠頭の中に線路が引き込まれ、列車が客船に横付けして旅客の便宜がはかられていた。
埠頭待合室は当時半円形であったが、改築されている。
戦後23万人の人々がこの埠頭から帰国した。
蒸気機関車 現在も線路は使用され、蒸気機関車が走ってました。
満鉄大連埠頭事務所
埠頭待合室の前にそびえ立つレンガ造7階建ての建物。
竣工時には大連一の高さを誇った建物。
1916年着工〜1926年竣工。
床面積:12,336u

(2001/09/15撮影)
東広場の大連取引所遠景 第二埠頭の前にある、満鉄大連埠頭事務所の屋上から東広場を眺める。
誇腺橋を経て正面に大連重要物産品取引所が見える。
大連重要物産取引所 大連重要物産品取引所
延べ床面積:8,481u
設計:関東都督府の石原巌
施工:高岡久留工務所
工期:1918年着工〜1923年竣工
大連市役所と同様に和風の意匠が施されている。
大豆・豆粕・豆油など重要物産品と金票や銀票を扱う取引所であった。

建物についての詳細説明は、河出書房新社:西澤康彦著『図説「大連都市物語」』を参考にさせていただきました。

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