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1894年(明治27年)8月〜1895年(明治28年)3月

日本の近代史上、初めて経験した対外戦争。
原因は朝鮮半島にあった。
当時の世界は、帝国主義の世界であった、列強の陰謀と謀略が他国に対する意思であり、侵略が国家の欲望であると言われた時代であった。
朝鮮半島を巡る当時の状況。
清国は朝鮮を属国と考えていた、また、ロシアは、朝鮮に対し野心を示していた。
日本は、自国の安全を保つために、朝鮮の中立を望んでいた。
朝鮮の中立を保つため日本と清国の勢力の均衡をはかろうとしたが、清国は暴慢であくまで朝鮮に対する己の宗主権を固執していた。ロシアも又朝鮮に対し保護権を主張していた。
帝政ロシアはすでにシベリアをその手におさめ、沿海州、満州をその制圧下におこうとしていた、その余勢を駆ってすでに朝鮮にまで影響を及ぼそうという勢いを示していた。
日本は「朝鮮の自主性を認め、これを完全独立国家にせよ」と主張していた。
朝鮮半島が他の大国の属国になると、玄界灘を隔てるだけで日本は他の帝国主義勢力と隣接せざるを得なくなる。
このため、1885年(明治18年)日本は全権大使、伊藤博文を天清に送り、天津条約を締結した。
清国に対する外国の租借
1842年 イギリスと南京条約(アヘン戦争)
1858年 アメリカ、イギリス、フランス、ロシアと天津条約
1860年 イギリス、フランス、ロシアと北京条約
天津条約の要旨は、
「もし、朝鮮国に内乱や重大な変事があった場合、両国はもしくはそのどちらが派兵するという必要が起こったとき、互いに公文書を往復しあって十分に了解をとること。乱が治まったときは直ちに撤兵すること」ということであった。
この条約によって日本は「朝鮮の独立を保持」しようと考えた。

しかし、
朝鮮の李王朝はすでに五百年も続いており、官僚腐敗と国土の荒廃、更に清国・ロシアの脅威で国家が崩壊寸前で、自らの力で運命を切り開く能力はなかった。
その頃、朝鮮では東学の乱がはびこっていた、やがてそれは農民一揆の色彩を帯びてきた。
1894年(明治27年)6月2日「甲午農民戦争」が起こり、朝鮮政府軍を度々破り、朝鮮政府は宗主国清国に内乱鎮圧のための出兵を要請した。
日本は、もしこれを許せば、清国に先手を打たれ朝鮮における日本の発言権は永久に消え去るであろうと、出兵した。
その根拠となったのが1882年(明治15年)、朝鮮李王朝との間に結ばれた「済物浦条約」であった。
「済物浦条約」は「日本公使館警備のため兵員若干をおき、これを護衛する」とあった。
1894年6月12日、早くも日本軍は1個旅団を仁川に上陸させた、この兵力を楯に「清国への従属関係を絶ち、さらに日本軍の力によって清国軍を駆逐してもらいたいという要請をする。」よう朝鮮政府に働きかけたが、朝鮮政府は清国が日本よりはるかに強国であると信じていたため、この要求を受け入れることをためらっていた。
しかし、7月25日ついに朝鮮政府はこの要求に屈し、清国兵の駆逐を要請する公文書を出した。

7月29日日本軍第1旅団は牙山・成歓の清国軍陣地を猛攻して平城へ敗走させた。
一方日本海軍連合艦隊は7月23日佐世保港を出港し、第1遊撃隊が豊島沖で清国北洋艦隊と遭遇し、清国側が実弾を発砲し、海戦となる。(豊島沖海戦)
連合艦隊の「浪速」は逃亡する清国北洋艦隊の「済遠」を追う途中、清国兵を満載した英国船「高陞号」に停船を命じたが、それを無視したため撃沈した。(高陞号事件
英国は激怒したが、後で国際法に照らして合法であることが判った。
この一連の戦いは「朝鮮政府の依頼による」という形がとられたが、8月1日日本政府は、対清宣戦布告を発した。

9月17日、黄海海戦で日本連合艦隊は勝利し、黄海での制海権を確立した。
陸軍第2軍は遼東半島に上陸し、金州、大連を攻落し、旅順に向かう。
清国海軍・北洋艦隊の拠点、旅順は、黄金山砲台、饅頭山砲台、鶏冠山、ニ竜山、松樹山、椅子山などの大堡塁をめぐらし、中央には白玉山堡塁をもって固めていた。旅順は「守るに易しく、攻めるに難し」という港であった。
日本軍は、陸上と、海上からこれを攻撃し、11月21日陥落させた。
日本連合艦隊は、もうひとつの北洋艦隊の拠点である、威海衛を攻撃し(威海衛海戦)、1895年(明治28年)2月13日清国は降伏した。

1895年(明治28年)4月17日、日清講和条約=下関条約が成立し、2億両の賠償金、遼東半島、台湾、澎湖列島割譲、朝鮮の領土保全を得た。
日清講和条約の内容に欧米列強は大きな関心を寄せていた。
それは、アジアの小国日本が大国の清国にどの程度の要求を突きつけるかということと、一方では列強の権益が日本の進出によって脅かされることへの危惧でもあった。
最も利害が絡んでいたのは帝政ロシアであった。
すでに、シベリアの西の入り口であるチェリャビンスクから太平洋艦隊の根拠地ウラジオストックまでの鉄道建設に着手していた帝政ロシアにとって、隣接する中国東北地方に日本が進出してくることは、一大難件であった。
ロシア太平洋艦隊の主力艦船はウラジオストックの結氷期には、避寒のため長期にわたって長崎港に投錨するのが慣例となっていたが、日本政府は外国艦船の同時2艘以上の寄港停泊を禁止したため、それが不可能となった。
このことは、帝政ロシアにとって冬季の東アジアに軍事的空白が生まれることを意味し、また、長崎に代わる投錨先を探さなければならなかった。このとき帝政ロシアが目に付けたのが、清国が軍港として整備した旅順であった。
その旅順が日清講和条約で日本に割譲されれば、帝政ロシアの海軍力は冬季結氷時期には著しく低下することになり、その戦力は大きく崩れる。
三国干渉
講和条約調印後、1週間もたたぬまに、ロシアが「 遼東半島を清国に返してやれ」という横やりを日本に入れてきた。
むろんロシア自身が考えて発案したものだが、ロシアはこの要求を世界の公論というかたちにして正当の擬態をとるため、フランスとドイツを語らって要求してきた。
弱小国の日本が台頭してきたことは、中国でほとんど独占市場を行っているイギリスや機会均等を叫びつつ、ちゃっかり甘い汁を吸っているアメリカを刺激はしなかったが、イギリスに冷や飯を食わされているフランスや、欧州列強の中で後進国的なドイツを刺激した。
ドイツの考えは大国ロシアの目を欧州から極東に向けておけば自らは安心という考えがあった。

日本は戦慄した、この要求を容れなければ一戦あるのみ、という態度がロシア側にあることが判った。
日本は、到底ロシアと戦えるような国ではない、ましてドイツやフランスをも敵にまわすような実力はなく、実力がなければその言いなりになるしかなかった。
日本は遼東半島を還付した。
表向きの理由は「遼東半島をうばうことは東洋の平和に障害がある」というもので、むろんこれは口実に過ぎない。
なぜならば、ロシアはその後わずか2年後に自ら遼東半島に軍隊を入れて奪ってしまったのみならず、満州まで占領してしまったのである。もっとも形は租借という形であった。
日清戦争後の大連
日本の遼東半島占有を排撃して清国に恩を売り、更なる報酬を得んとしたロシアは、清国が日本に支払う巨額の賠償金の調達を斡旋したりした。
1896年、帝政ロシアは東清鉄道の敷設権を得て翌年から鉄道建設に着手した。
東清鉄道は表向きは露清銀行と清国政府との合弁会社であり、露清銀行はフランス資本であったが、実権は帝政ロシアが握っていた。
その後、1898年(明治31年)大連・旅順を租借した。
租借権を獲得したロシアは旅順口を軍港とし、大連港を通商港とし、陸海軍を上陸させて軍政・民政を敷いた。
大連湾内の青泥窪部落一帯を買収して新市街を建設して「ダーリニー」と命名した。
「ダーリニー」とはロシア語で「遠方」を意味する。

シベリア鉄道はチタとウラジオストックの間では、露清国境に沿って大きく北に迂回するが、この区間の短絡線として東清鉄道を建設した。
また、旅順を軍港としたのち。旅順とハルピンに間を満州鉄道で結んだ。

李王朝(李氏朝鮮)
高麗の武将・李氏が建てた朝鮮最後の王朝。(1392年〜1910年)
1392年より1910年の「日韓併合」まで、27代 519年にわたって続いた。
15世紀には対馬・北九州の諸大名との交易を通して日本と交流していたが、太閤・豊臣秀吉の朝鮮征伐によって、国運が衰退し、宗主国・明国が滅亡すると、満州族の清国の属国となった。
そのご、江戸時代には、日本と国交を回復し、19世紀初じめまで12回にわたって「朝鮮通信使」と呼ばれる使節を日本に派遣した。その後、清国への遠慮から鎖国政策をとったが明治維新後開国した。
高陞号事件
朝鮮北西の豊島沖の海戦で清国北洋艦隊の「済遠」という軍艦を追いかけていた日本連合艦隊の巡洋艦「浪速」は英国船籍の汽船を発見した。その船には清国陸軍の将兵を満載していた。
「浪速」は停船命令を出したが、それを無視し船長を脅し逃亡を企てたので「浪速」はこれを撃沈した。
船長以下船員はことごとく救助されたが、清国兵は救助に向かった舟艇に対しても沈没寸前の艦から銃撃してきたため救助されずほとんど溺死した。
英国は激怒したが、これらの措置は国際法に照らして合法であることが判り、一旦沸騰した英国世論も収まった。

参考文献
・司馬遼太郎:「坂の上の雲」
・大連市役所編「大連市史」
・西澤泰彦著:大連・都市物語
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