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1904年(明治37年)2月 〜 1905年(明治38年)9月

日本では、三国干渉による遼東半島還付以後、臥薪嘗胆という言葉が流行した。
「日露戦争の原因は、満州と朝鮮である。満州を獲ったロシアがやがて朝鮮を獲る」
日露戦争にもし日本が負けていれば、朝鮮はロシアの所有になっていたことは、間違いが無い。
日本は、朝鮮半島を防衛上のクッションとして考えるだけでなく、できれば市場とにできればとも考えていた。
19世紀末は帝国主義による世界分割が激しく、東アジアでは、日清戦争に敗れた清に対して列強が支配地を拡大していった。
     列強の勢力範囲

極東の大地が、ロシア人の駆け回るところ、ことごとくロシア人の所有になりつつあるという異常な事態は、当然、ヨーロッパの外交界を刺激した。
日本の外務省は、英国と同盟したかったが、国力といい、文明の度合いといい、世界に超絶した実力を持つこの国が、世界の片田舎である極東の、それも工業力と名づけるほどのものすらまだ芽生えたばかりの国と対等の同盟を結ぶだろうかという危惧があった。
ロシア人は、民族としてはお人よしだが、それが国家を運営するとなると、普通では考えられないような「うそつき」になるというのは、ヨーロッパの国際政界での常識であった。
ロシアおよび英国がそれぞれ他国と結んだ外交史を調べたところ、驚くべきことにロシアは他国との同盟をしばしば一方的に破棄したという点で、殆ど常習であったと言われている。
「ロシア国家の本能は、略奪である」と、ヨーロッパで言われていたように、その略奪本能を、武力の弱い日本が、外交テーブルの上で懇願してかれ自身の自制心によって抑制してもらうというのは、不可能であった。
ところが、1902年(明治35年)1月30日、日英同盟は調印された。

このような状況の中で日本政府はロシアに対して「協商案」を提出した。
(1903年(明治36年)小林寿太郎外相と駐日ロシア公使ローゼンとの間で朝鮮満州をめぐる交渉開始。)
「協商案」の主眼は、
「清国・朝鮮両帝国の独立および領土保全を尊重すること」
「ロシアは朝鮮における日本の優勢なる利益を承認すること。そのかわり日本はロシアの満州における鉄道経営の特殊利益を承認すること」
といったもので、要するに日本は朝鮮に権益をもち、ロシアは満州に権益を持ち、互いに犯しあわない。というものであった。
これは、日露の帝国主義の角の突きあいであった。
日露双方が、近代的な産業国家になろうとし、それにはどうしても植民地が必要であった。
そのため、ロシアは満州をほしがり、植民地のない日本は朝鮮に必死にしがみついていた。
19世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力を持ち、帝国主義の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。

ロシアは日本の案を黙殺し、「朝鮮の39度線以北を中立地帯にしたい」と言ってきた。
中立とは名ばかりで、要するに、平城−元山から以北をロシアの勢力下に置くというものであり、露骨にいえば朝鮮の北半分は欲しいというものであった。

日本はこの交渉に絶望し、談判は決裂した。
1904年(明治37年)2月10日、ロシアに宣戦布告した。
戦いは、朝鮮・仁川沖でのロシア海軍への奇襲攻撃で始まった。
ロシア軍は、旅順と大連を含めた遼東半島南端部分を丸ごと要塞化し、その根元にあたる幅4km足らずの金州地峡全体に堅固な要塞を築いていた。

日露戦争年表(要約)
1904年(明治37年) 2月 8日 仁川沖でロシア艦隊を攻撃、先遣駆逐隊旅順口を奇襲
2月 10日 対露宣戦布告
2月 12日 清国、中立を宣言
2月 24日 第1回旅順口閉塞作戦
3月 6日 第1回ウラジオストック威嚇砲撃
3月 21日 第1軍、鎮南浦上陸
3月 27日 第2回旅順口閉塞作戦
5月 1日 第1軍、鴨緑江会戦、九連城占拠
5月 5日 第2軍、遼東半島上陸
5月 26日 第2軍、金州城を占拠
8月 3日 第2軍、海城及び牛荘城を占拠
8月 10日 黄海海戦、ロシア旅順艦隊、旅順港に遁走
8月 19日 第3軍、第1回旅順総攻撃
9月 4日 遼陽会戦(第1軍、第2軍、第4軍遼陽を占拠)
9月 19日 第3軍、第2回旅順総攻撃
10月 9日 沙河会戦
10月 15日 バルチック艦隊、リバー港出港
10月 26日 第3軍、第3回旅順総攻撃
11月 26日 第3軍、第4回旅順総攻撃
12月 5日 第3軍、203高地占領
12月 8日 ロシア旅順艦隊壊滅
1905年(明治38年) 1月 2日 旅順開城(水師営の会見)
1月 25日 黒溝台の会戦
2月 20日 奉天の会戦
3月 16日 バルチック艦隊、ノシベ出港
5月 14日 バルチック艦隊、カムラン湾出港
5月 27日 日本海海戦
9月 5日 日露講和条約締結(ポーツマス条約)

旅順・大連・金州
ロシア軍は、旅順と大連を含めた遼東半島南端部分を丸ごと要塞化し、その根元にあたる幅4km足らずの金州地峡全体に堅固な要塞を築いていた。
ロシアは、軍港旅順さえ確保していれば、黄海の制海権が日本側に移ることは無く、さらに、たとえ遼東半島に日本軍が進出してきても、旅順と共に商港ダーリニーの確保は可能であり、日本軍の補給が容易になることは無いと考えていた。
ロシア軍もダーリニーのロシア人も金州・南山の堅固な要塞を過信していた。
日本軍はロシア軍の強力な重火器に苦戦しながらも海軍艦船による艦砲射撃に助けられ、5月16日の夕刻、南山要塞を陥落させた。南山要塞陥落がダーリニーのロシア人たちを驚かせ一夜にして旅順に避難した。大連は無血で日本の手に落ちた。

旅順口・203高地
開戦時、ウラジオストックはすでに結氷期にあるため、ロシアの極東艦隊19万トンという大海上兵力のほとんどが旅順港に入っていた。しかし敵艦隊が洋上に出てこないかぎり、強力な要塞砲で護られているこの港に日本艦隊は近づくことは出来ない。
旅順の極東艦隊を殲滅することが、日露戦争における日本の勝敗の分け目であった、黄海の制海権を得なければ大陸での戦闘に補給が出来ない。
旅順港の港口は狭く、その幅は273mで、しかもその両側は底が浅いため、巨艦が出入りできるのはまん中の91m幅しかない。そこへ古い汽船を横にならべて5、6艘沈めてしまえば旅順口を封鎖出来ると考えて作戦が行われた。
3回行ったが要塞砲の威力が強く近ずくことがかなわず閉塞することが出来なかった。黄海の制海権を護るため、日本の連合艦隊は、要塞砲の射程外で旅順口を封鎖し続けなければならなかった。
10月、日本陸軍は、遼陽会戦、沙河開戦と辛うじて勝ってきたが、旅順では苦戦していた。
10月15日ロシア・バルチック艦隊はリバウを出港した。
旅順の極東艦隊は、バルチック艦隊の到着を待っていた。バルチック艦隊が到着すれば一緒にウラジオストックまで逃げ込み、体制を立て直し日本の連合艦隊を殲滅し黄海の制海権を取り戻せると考えていた。
旅順要塞を陸上から攻撃していたのは、司令官乃木希典率いる第3軍であった。参謀長は伊地知幸助。
連合艦隊が見つけた、203高地は旅順口を見下ろせる格好の場所だった。そこに観測兵を置いて港内の軍艦を海軍砲で砲撃すれば、旅順の残存艦隊は消える、日本連合艦隊は佐世保に帰港しドック入りし、来るバルチック艦隊に備えることが出来る。
それまで、乃木軍は旅順攻撃で累々たる戦死者の山を築いていた。
特に203高地の攻略に死傷者が多かったのは参謀長伊地知の無能のせいだと言われていた。
海軍は203高地を攻めてくれと様々な方法で乃木司令官に頼んだが、伊地知は「陸軍の作戦に関し、海軍の干渉は受けぬ」と突っぱねていた。
関東軍総参謀長の児玉源太郎がついに旅順に乗り込み、乃木に変わって指揮を取り12月5日203高地を攻略した。
最初、海軍が海上から発見した203高地という大要塞の弱点を乃木司令官が直に認め、東京の陸軍参謀本部が指示したとおりに、海軍案を乃木司令部がやっておれば、旅順攻撃での日本軍死傷者6万という膨大な数字を出さずに済んだであろう。
旅順攻撃での日本軍の死傷者の数。
戦死者:15,400人
負傷者:44,000人
   計:59,400人
203高地の陥落は、ロシア軍の防御構成に重大な影響をもたらした。ロシア軍にとってこの高地と連携した要地だった赤坂山の堡塁などはかってあれほど日本兵を殺傷した強力陣地でありながら、地勢上その力を失い、次の日の6日に守備兵は戦わずして退却した。赤坂山以東の堡塁のロシア兵はみな逃走した。
日本軍は203高地に見張りを立て、陸軍砲、海軍の艦砲射撃で、旅順口内の艦艇を砲撃し全て殲滅した。
旅順要塞のロシア軍は1905年1月2日降伏した。
水師営にて、乃木司令官とステッセル将軍の会見が行われたのは1905年(明治37年)1月5日であった。

バルチック艦隊航行図
1904/10/15 リバー港出港
1904/11/1 スペイン・ヴィゴ出港
1904/11/7 アフリカ・タンジール出港
1904/11/16 アフリカ・ダカール出港
1904/12/1 アフリカ・ガボン出港
1904/12/16 アフリカ・アングルベクウェン出港
1905/3/16 マダカスカル・ノシベ出港
1905/5/14 カムラン湾出港
1905/5/27 日本海海戦
ロシア・バルチック艦隊は1904年(明治37年)10月15日リバー港をした。そのころ満州では日本軍は遼陽を占拠し、沙河会戦に臨むところであり、旅順では、203高地の攻略に苦戦していた。
日本海海戦まで7ヶ月に渡る苦難の航海であった。この航海の大半の港がイギリスによって握られているか、その影響下にあり、イギリスは日本と同盟関係にあったためこの航海をことごとく妨げようとした。
ロシアと友好関係にあったフランスは初めは協力していたが、日本の勝利が重なるにつれ、日本の同盟国であるイギリスに遠慮し始めた。
辛うじて同じ同盟国であるドイツが燃料の石炭など補給していた。
バルチック艦隊は第2艦隊(フェリケルザム支隊)と合流のうえ1905年(明治37年)3月16日マダカスカルのノシベを出港した。(ノシベには3ヶ月近く滞在していた)
フランス領カムラン湾で第3艦隊と合流して5月14日出港した。

日本海海戦
バルチック艦隊のロジェストウィンスキー総督はバルチック艦隊を引き連れてウラジオストックに逃げ込むのが戦略目的であった。その成功によってロシアは日本の海上交通を脅かし、満州の日本陸軍を日干しにして戦略的優位にたつという重大な任務を帯びていた。
反対に日本連合艦隊はバルチック艦隊を全部叩き沈めてしまわなければ勝利にならない。
日本海海戦のあった1905年5月27日という日は帝政ロシアのニコライ2世の戴冠記念日であった、ロジェストウィンスキーは速力を調整してこの日に合わせた。
また、バルチック艦隊は長旅で船も乗組員も疲弊しきっていたのでひとまづウラジオストックに入り、艦船の修理・整備を行い残存のロシア極東艦隊と合流して、日本連合艦隊と海戦を行いたかった。
日本連合艦隊の参謀秋山真之は相手の航路の予測に頭を悩ましていた。対馬海峡か、津軽海峡か?。
信濃丸という貨客船を改造した哨戒艦が敵艦見ゆと打電したのは「タタタ、タタタタ」という暗号電文であった。
連合艦隊の旗艦「三笠」は旗旒信号「Z旗」を揚げた。「皇国の興廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」。
また海戦に際し連合艦隊は大本営に打電した。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。」「本日天気晴朗なれども浪高し」有名な電文です。
日本海海戦で日本連合艦隊は圧勝した。
しかし、日本陸軍は奉天まで勝ち進んだものの、兵力や武器弾薬の補給が続かない。広大なロシア大陸にどこまでも進出できる筈が無く、日本海海戦の勝利を好機とみて、アメリカの仲介による帝政ロシアとの講和交渉を始めた。
1905年(明治38年)9月5日、日露講和条約に調印した。(アメリカの斡旋でポーツマス条約締結)
関東州租借地に関する日本国の権利関係は日露講和条約と12月に満州に関する日清条約によるものであり、日本国は露國が清国との条約により獲得した権利を露國より継承し、清国の承認を得たものである。


日露講和条約の要約(1905年9月5日)(明治38年)
     第5条 ロシア帝国政府は清国政府承諾を以って旅順口、大連並びにその付近領土および領水の租借権を日本政府に移転譲渡する。
第6条 ロシア帝国政府は長春・旅順口間の鉄道及び支線や付属設備の全ての権利・財産を清国政府の承諾を以って日本政府に移転譲渡する。

満州に関する日清条約の要約(1905年12月22日)(明治38年)
     第1条 清国政府は露國が日露講和条約第5条及び第6条により日本国に対してなしたる一切の譲渡を承諾する。
第2条 日本国政府は清露両国間に締結された租借地並びに鉄道施設に関する原条約に照らし、努めて履行すべきことを承諾する。将来何ら案件の生じたる場合には随時清国政府と協議の上これを定むべし。
(注) 原条約とは、遼東半島租借条約(1898年3月27日北京にて調印)露國と清国の間の条約・・・(三国干渉によるロシアの租借)


臥薪嘗胆
臥薪嘗胆とは、古代中国の春秋のころ、呉王夫差(ごおうふさ)が、越王勾践(えつおうこうせん)を打って父のうらみを報じようとし、そのうらみを忘れないために、つねに薪の上に寝て身を苦しめた。その復讐が成功すると、今度は越王勾践がその恥を注ごうとし、つねに熊の肝をなめて、その苦さによって自分の中のうらみを持続させようとした。

参考文献
・司馬遼太郎:「坂の上の雲」
・大連市役所編「大連市史」
・西澤泰彦著:大連・都市物語
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