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旅順は清朝の末、北洋艦隊の根拠地であったが日清戦争ののち、ロシア帝国が中国から租借、大軍港と大要塞を建設した。
日露戦争において、旅順の港と大要塞は、補給路を確保するため日本の陸海軍にとって最大の痛点であった。
ロシアの極東艦隊の大海上兵力はほとんど旅順港に入っていた。
日本の連合艦隊は狭い港口と陸上の要塞砲に守られた港内にいるロシア極東艦隊を封鎖しつづけていた。
旅順攻略は乃木希典を軍司令官とし伊地知幸介を参謀長とした第三軍が当たった。
乃木軍の参謀長伊地知幸介無能により日本兵の集団自殺的な戦死があった。
一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけるという例は、史上に類がないと言われている。
乃木将軍もその当時はこんにち人が崇拝するごとき司令官ではなかった。

満州軍総司令部の児玉総参謀長が、乃木軍司令官の指揮権を代行して、明治37(1904)年12月5日、6千2百の日本兵を殺した203高地を陥落せしめた。
旅順における両軍の兵員の損害は、
   ロシア軍:戦闘員:4万5千、死傷者:1万8千余人、死者2〜3千人
   日本軍 :兵力 :10万人、死傷者:6万212人、死者1万5千4百余人

海軍が海上から発見したこの203高地という大要塞の弱点を、乃木軍司令部が素直にみとめ、陸軍参謀本部が海軍案を支持したとおりに乃木軍司令部がやっておれば、旅順攻撃での日本軍死傷者6万という膨大な数字を出さずに済んだであろう。

日露戦争後も日本の海軍基地となり、今も中国海軍の重要な根拠地の一つとなっている。

長い間、外国人は立ち入り禁止となっていたが、1996年6月に部分開放された。

二〇三高地
旅順の北西約2キロにある小丘で、標高203メートル、日露戦争の激戦地として知られている。
乃木軍司令部の参謀長伊地知幸介の、無益の殺生による日本兵の戦死者6千2百余名。
緩傾斜ではあるが、旅順前面の山地中標高がもっとも高く、頂上の展望もよく、旅順港口を一望の もとに見下ろす位置を占めているため、戦略上きわめて重要視せられた。
203高地を攻略出来たことにより、ここに観測兵を置き旅順港内のロシア軍艦を海軍砲で砲撃することによって、港内のロシア艦隊は全滅した。奥に見えている山が203高地です
203高地の頂上にある記念碑です
乃木大将命名の「爾霊山」の文字が刻まれている。
二〇三を「にれいさん」と読み替えたといわれている。

203高地頂上付近の斜面に残っている、ロシア軍の塹壕
(実はこれ偽物だそうです、中国の当局によって石垣が築かれたそうです。1999/2/5)
203高地にある乃木大将の次男「乃木保典」の戦死の碑。
最近、中国の当局の手によって建てられた。
203高地から見下ろした旅順の市街と旅順港
遠くに見える水路が旅順の港口、その幅は273mと狭く、
旅順口閉塞という作戦がとられたが、失敗に終わった。
遠くに見えるのが273mの港口。


水 師 営
日露戦争の旅順開城のさい(1905年1月5日)、日本軍司令官 ”乃木希典”(のきまれすけ)と ロシア軍司令官 ”ステッセル”が歴史的会見を行った場所。 水師営の会見場所
水師営建材部と書かれている敷地の中にあり
正面に見える建物です。
今は倉庫として使われていました
そのうち歴史的建物として保存されるそうです。
現在は新しい記念館のような建物が建ってます。


東鶏冠山北保塁(ひがしけいかんざんきたほるい) 日露戦争の激戦地として「203高地」と同様に有名な場所。
「203高地」より旅順港に近く、何百人もの兵士が暮らす頑強な保塁が築かれていました。
保塁の内部です。今は床が落ちてありませんが2階建てだったそうです。
横幅は5mくらい。
およそ100年の前の建物ですがそれにしても、良く保存されていていました。

攻撃により爆破された保塁の外壁
保塁の下まで地下坑道を掘り爆破したそうです。



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