旧満州・大連上葭国民学校同窓会

第7回生同期会 (平成12年6月12日〜13日)


咲きました、大連の朝顔が!
同窓会で、野田芙美子さん
から頂いた、大連の野生の
朝顔です。
直径2pほどの可憐な朝顔です。
(7月27日朝撮影)
初めての同期会

【昭和20年、1945年の終戦から半世紀の時を経て、人、皆、公平に老い、我々の懐かしくかつ苦しかった記憶も幽玄の彼方に薄れつつあります。共に遊び、共に学び、共に耐えたあの日を、先生をお迎えして語り合うことも、もう二度とないのかもしれません。そのような思いから、山田和子さん、Y氏のご協力を得て、はじめての「7回生同窓会」なるものを企画致しました。会って実りある会にしたいとの切なる気持を込め、ご案内申し上げます。・・・・】
という書き出しで、広瀬正二氏から総会出席者に案内があり、実現しました。
ほとんど全て、広瀬氏一人で4月から準備に掛かり、ホテルやタクシーなど詳細な手配をしていただきました。 また、16ページにも及ぶ観光案内を作成して参加者全員に配り、観光をより充実していただきました。
感謝の気持を込めて、7回生同期会の報告をします。


七回生の参加者総員(奥様や、ご妹さんとその娘さんの、3名を含む)
前列中央が小林先生(旧姓尾崎先生)(写真提供:地崎氏)



総会翌朝、琵琶湖ホテルを出発時,
ロビーにて、七回生と尾崎先生。
(写真提供:地崎氏)

同期会の観光は古都・奈良の寺院を時間を気にせずゆっくりと観光することになりました。
行程は前もってはっきり決めてはいませんでしたが、次のようになりました。


大津→JRにて京都→近鉄にて西ノ京→唐招提寺→昼食→ジャンボタクシーにて薬師寺→秋篠寺→東大寺→ホテル(奈良ロイヤルホテル)→割烹「東吉」にて会食→泊
翌日、興福寺→猿沢の池→近鉄奈良駅にて解散

写真の説明は広瀬氏のまとめた案内書と寺院のパンフレットによります。
仏像の写真はほとんどの寺院で撮影禁止のため掲載出来ませんでした。


唐招提寺
唐招提寺「金堂」

唐招提寺「金堂」
わが国現存最大の天平建築であり天平年間以来、幕末まで火災を蒙っていない唯一の寺である。
これから、修復復元工事にかかる処で、工事の準備中でした。
残念ながら、写真もうまく撮れませんでした。

唐招提寺「講堂」 唐招提寺「講堂」
唐招提寺「宝蔵」(校倉造り) 唐招提寺「宝蔵」(校倉造り)
唐招提寺南大門にて 唐招提寺の南大門にて記念撮影。
薬師寺
薬師寺

薬師寺遠望
観光バスでなくタクシーによる観光の特別コースでの景観。
右から、東塔、西塔、金堂と並ぶ。
本尊は薬師如来
以前有名な高田好胤師が管主をされてました。

薬師寺金堂 「龍宮造り」と呼ばれる美しい金堂
薬師三尊像

薬師如来を中央に、向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩、あわせて薬師三尊と申します。薬師如来は、東方浄瑠璃浄土の教主で、一名を医王如来とも言い、私たちの身と心の病気を救ってくださる仏さまです。脇侍の日光・月光両菩薩は、動きのある美しい姿で、理想的な写実美を完成した仏様といわれています。
あたかも今造られたたのような美しいお姿は、世界でも最高の仏像と仰がれています。

(写真と説明文は「薬師寺パンフレット」からお借りしました。
薬師寺東塔
薬師寺東塔
薬師寺西塔
薬師寺西塔
萩の花

薬師寺参道の赤い萩の花の前で記念撮影。
(写真提供:山田さん)

秋篠寺
秋篠寺

秋篠寺 本堂(国宝)
佐紀路の鄙びた静かなところに、ひっそりと佇む秋篠寺は、光仁天皇の勅願で、780年(奈良時代末期宝亀11年)に建てられたと伝わる。創立時は、金堂、講堂、 東西の塔をもつ大寺であったが、兵火により、その殆どを焼失した。現在の本堂は、そのとき、唯一残った講堂を鎌倉時代に改築したものである。
本尊は薬師如来像で、愛染明王、帝釈天、不動明王、日光菩薩・月光菩薩、十二神将、地蔵菩薩、伎芸天が安置されている。
中でも伎芸天は、その美しい姿に魅せられて訪れる人々が多いと言われてます。
残念ながら、その姿をお見せすることが出来ません。

東大寺
東大寺「大仏殿」

大仏殿(東大寺金堂)
あまりにも有名な処で説明なし。
修学旅行生で賑わっておりました。
世界最大の木造建築物。

毘盧遮那仏

「奈良の大仏」
今回唯一写真撮影の許されたところでした。

「奈良の大仏」その正式名は「毘盧遮那仏」だそうです。
その意味は、知恵と慈悲の光明をあまねく照らし出されている仏ということで、東大寺と関係の深い華厳経の本尊。天平15年(743)に聖武天皇の詔によって鋳造されたもので、開眼法要は9年後の天平勝宝4年の4月。工事に携わった人の数は延べ260万人余といわれ、鋳造に使われた銅だけでも499t、メッキに使われた金は440kgで、日本国中から集められた。右手は胸のあたりに上げて、前方に掌を向ける施無畏印(せむいいん・畏怖を取り除いて安心させる)、左手は膝の上で掌を上に向ける与願印(よがんいん・願いを与える)の説法の姿である。また、台座の蓮弁には、宇宙のありさまを描いた壮大な蓮華蔵世界の毛彫図が刻まれており、華厳経の説く「悟りの世界」を絵に表したもので、その一部はいまに残っている。なお、尊像は像高14.98メートル、目長1.02メートル、耳長2.54メートル、顔長5.33メートル、鼻高0.50メートル、台座高3.05メートル。重さは380tと推定される。

大仏殿記念撮影

大仏殿の前でのスナップ。
ごめんなさい!3人しか写ってなくて。
右から、広瀬さん、大谷さん、山田さん。

奈良・東吉で会食 同期会の夕食は「割烹・東吉」での宴会でした。
奈良在住の岩松一郎さんも加わり恩師・尾崎先生を囲んで、1年生から3年生までの懐かしい話に花が咲きました。
(写真提供:岩松一郎氏)
全員若くはありませんが(いや!まだまだ若い!!)、溌剌とした顔です。
もう少しはっきり見たい方は、ここをクリック

同期会2日目の観光:人数は2人減って7人
興福寺
興福寺東金堂

興福寺
藤原鎌足の病気平癒を祈願して、夫人の鏡王女が669(天智天皇8)年に京都に建てた山階寺が起こりである。2度の遷都に伴って移転し、興福寺となった。中世には実質的な大和守護職として権勢を誇った。明治維新の廃仏毀釈で、日本で京都の東寺に次いで2番目の高さを誇る五重塔が250円、三重塔は30円で売りに出されたという。買い手がついたが、いずれも取り壊しに物言いがついて中止になったそうである。この塔が無くなっていたらどういうことになるのか。おそらく、この由緒ある大寺は全く影がうすれてしまったことだろう。五重塔は、そう古いものではないのだが、立地条件から見ても、仏都奈良の象徴と言えるきわだった存在と言えよう。
奈良県庁、奈良県文化会館と道を隔てて、北円堂、中金堂、東金堂、五重塔、三重塔、南円堂、そして比較的新しい(と言っても30数年前だが)国宝館が立ち並ぶ。
(歴史のつぶやき;寺院であって一国の守護職を兼ねたものは、他に類例を見ない。食堂跡の国宝館で見る鎌倉期のすぐれた仏像郡は、その強大な権力と経済力を象徴するものである。天下統一覇業を推進した信長は、大和一国の検地を行ったが、興福寺の寺領は2万5千石、東大寺は、わずかに1千5百石という数字だった。)

(文章は広瀬正二氏作成の観光案内「奈良・日本のふるさとをあるく」より掲載しました。)
(下の写真は、山田さんの提供)
興福寺五重塔
阿修羅像(国宝)
興福寺国宝館の仏像

阿修羅像(国宝):
  乾漆造・奈良時代・天平6年(734)

(写真は、興福寺国宝館拝観券より借用しました。)
猿沢の池

帝の寵愛が衰えたのを苦にして、猿沢池に身を投げた采女をまつる采女神社が池に背を向けて建っているのが、とても悲しいと言われている。


昔ながらの、亀の甲羅干し、今の亀は殆ど緑亀だそうです。

同期会はここで終わりました。
近鉄奈良駅に行く地下道の入り口で恩師・尾崎先生とお別れする時が来ました。
何時までも、姿が見えなくなるまで手を振っていらっしゃる、恩師の姿に目が潤んできました。 先生、何時までもお元気で!。また来年お会いできますよう祈ってます。
同期生の皆さん、楽しい会を有難うございました。
次回「宮崎」の会で、お元気な姿で再会出来ますよう、体に気おつけて頑張りましょう。
お世話いただいた、広瀬正二様、有難うございました。来年も宜しくお願い申し上げます。
最後までご覧いただき有難うございました。


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